2012年7月23日月曜日

~震災から500日~

~震災から500日~

今も震災当時のままの市民体育館。
何度ここへ足を運んだことか・・・。ここで両親は津波に遭い、帰らぬ人となりました。

私が幼い頃からここは避難所で、昭和35年のチリ地震津波の日に
毎年行われていた“避難訓練”の時も地域の人達はみんなここに集まっていました。
だから、何も疑うことなくここに来たんだと思います。
市内では、被災した公共の建物の解体が始まりました。
そう遠くないうちにここも解体になることでしょう。

なぜ、迎えに行かなかったのか、助けに行かなかったのかと自分をずっと責めてきました。
津波が襲ってきたとき、何を思ったのだろうか苦しまなかったのだろうか、
怖かっただろう寒かっただろうといろいろな事を考えると、自分たちだけ助かって
ごめんなさい・・・と苦しくなってきます。
毎日普通に過ごしていても、ふとした瞬間に涙があふれてきたり、
なくなってしまった実家の風景が頭の中にうかんできたり・・・。
遺体安置所に通った日々、安置所に立ちこめるにおい、尋常ではない光景・・・
今も忘れられません。

陸前高田市民は皆、そんな思いを抱えながら生きています。
あまりにも悲しすぎて忘れることなどできるはずがありません。私の悲しみよりも
もっともっと大変なひとは沢山います。
それでも表面上は“いつまでも下を向いていてはいけない、
前を見て生きていかないと” と歯をくいしばって生きています。
あの日から立ち止まったまま、次の一歩を踏み出すことができないでいる人もいます。
まだ、震災のことを口に出すことができない人もいます。

500日たった今も、まだ225名の方が見つかっておらず、遺族のかたが家族の帰りを
まっています。
もう二度とこんな悲劇を繰り返してはいけません。
こんなに苦しい思いは今回で終わりにしなくてはいけないと強く思います。

街の復興もこころの復興もまだまだこれからで、先が見えない状況ですが、
日本中、世界中の方々から助けて頂いたことに感謝し、そのご恩に報いるためにも
少しずつでも、みんなで元気になっていきたいと思います。

震災から500日。
今日は、ただあの日から500日が経過したという節目でしかありません。
これから先もくじけそうになるかもしれないけれど、
犠牲になった方たちの分も毎日を大切に生きていきたいと思います。

2012年07月23日     パーソナリティー阿部